統合失調症の亡き母  ~娘の体験記~

私が中学3年生の時に母が統合失調症になりました。それから約7年(現在)に至るまでの私の気持ちや体験を書いていきたいと思います

発症して初めての入院&面会

今日は高校時代の母との関係について書いていきたいと思います。

前回書いたように、高校時代は、勉強、部活、家事、、、etc。

自分のことをするだけで精一杯でした。忙しくて時間もそして心も余裕がありませんでした。

 

そんな中で母は統合失調症で入退院を繰り返していました。

 

発症して初めての入院&面会

中学3年生の終わりごろに母が初めて発症(陽性症状)し、そのまま入院となったのですが、初めて面会に行ったのは高校1年生の5月ころでした。

ちょうど母の日らへんです。

父と一緒に行ったのですが、いつもはしない父が気を利かせてカーネーションを買っていったんです。

小学高学年から、中学生まで私は荒れていたので母の日を送った記憶がないです。父がカーネーションを買ってきたのに、かなり衝撃を受けたのを覚えています。

仲が悪かった母と父でしたが、父が心配もしているんだなともそのカーネーションをみて思いました。

 

そんな感じでカーネーションを面会に持っていたわけですが、

母が喜んでいる姿は覚えていません。記憶にないだけかもしれませんが、想像してた面会とは違いました。

母は、しつこく「医者とはどんな話をした?」「私のことを何と言ってる?何か隠してるだろ」って聞いてくるんです。言い方やニュアンスから医者の人を敵視してるように感じました。終始、何か隠してるんだろ……って。

病識がなくて、幻覚や幻聴が聞こえていたのかもしれませんが、母は警戒していました。

初めての面会はそんな感じだったように思います。

 

またその時医者から母の症状の説明を父と一緒に受けました。

医者は母の症状の説明と同時に、「家族も精神的に追い込まれているケースも多いですが、家族はカウンセリング受けますか」というようなことを聞いてきました。

私は当時の悩みを打ち明けたかったです。苦しい。助け。というような気持ちで。求めていました。

だけど一緒にいた父は………

「いえ、大丈夫です」ってカウンセリングを断ったんです。

どうして。愕然としました。

家族は必要な状況なのに、どうして断るの?どうして?

どうせ世間体じゃんって。

私は当時自分の意見を言えるような性格ではなかったので、受けたかったことを父には言えませんでした。

父がどんな思いでカウンセリングを断ったか分かりませんが、私からは世間体を気にしているようにしか思えませんでした。

 

 

しばらくして母は退院しました。

退院した後は、母の実家にいるのが最善だろう。という判断で母は実家で生活していました。実家には母の姉の家族が同居しているので、おもに母の姉に面倒を見てもらっていたといった感じでしょうか……

 

それからまたしばらくして母は家に戻ってきました。

入院してから戻ってくるまでは定かではないですが随分長かったように思います。

高校1年生のときは、母が家にいた記憶はほとんどありません。

高校2年生の時に母は家に戻ってきました。

 

母が戻ってきて……

 

また次に書こうと思います。

今日はこのくらいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校時代の生活

前回までは、母の発症時のこと、家庭環境について少し書いてきました。

今回は私が高校生の時の生活を、書いていきたいと思います。

 

高校時代の私の生活について

私は実家から早くて1時間半。かかるときは2時間かかる高校に通っていました。

最寄り駅まで車で20分。バスは一時間に1.2本あるかどうかの田舎に実家はありました。

高校生からすると、けっこう距離が遠い方でした。さらに私は部活に入っていて時間に追われる毎日を過ごしていました。

 

毎日、課題や部活に忙しい……。これだけなら充実した高校生というような感じで、周りの同級生と何も変わらないんです。

だけど私には、学校の課題や部活に加え、家に帰ってきたら家事がありました。

家事……。その当時家事をするのは相当きつかったです。

家が遠いこともあり、部活をして平日は帰ってくるのは、夜9時ごろ。そこから洗濯物して、お弁当箱を洗い、明日のお弁当の準備、お風呂、学校の課題。

全部が終わるころには日を超えてるのがほとんどでした。

そして朝起きるのは朝5時。部活が運動部に入っていたので、その生活は体力的にもきつかったです。

 

私は家事をしないと自分の生活すらできない環境でした。

でも、周りの同級生は家族にやってもらえているんですよね。それを嫌でも目の当たりする時があるんです。それはお昼の時間のお弁当でした。

私の高校は公立校で、学食はありませんでした。購買はあるので、軽いものなどは買えましたが、ほとんどの子がお弁当でした。友達のお弁当を見ると、とてもおいしそうなんです。家族に作ってもらっていて……。

私のお弁当は時間のない中で作ってきているので、周りと比べてしまうと、貧相なお弁当でした。それが嫌で、恥ずかしくて、悲しくて……。

周りがとてもうらやましかったです。

友達同士で、家族の話題にたびたびなるのですが、友達に話せるような家族のことなど、1つもありませんでした。

 

家族とは(当時思っていたこと)

当時私にとって家族とは、ただ屋根の下に一緒に住んでるといった感じでした。(中学2年生のときから、祖母の家と自分の家を行き来しているような状態でしたので、一緒に住んでいるというのも違う気がしますが……)

家族が一番大切な存在とか、かけがいのない存在というふうには1ミリも思えませんでした。

むしろ、母、父、姉、私の家族みんながみんなバラバラでした。

家事についても洗濯はそれぞれ。ご飯も食べているのがばらばらでした。

名前だけの家族というような感じですね。

 

母について触れていませんでしたが、私が高校生の時の母は入退院を繰り返していました。

母との関係について次は書いていきたいと思います。

 

家庭環境

今日は統合失調症になる前の母の性格・家族について書いていきたいと思います。

 

母の性格について

統合失調症になる前の母の性格は、ビックファイブのパーソナル特性からいうと、

外向性・経験への開放性が低く、神経症傾向が高いような人でした。(あくまで、私から見た母の性格特性ですが……)

活発的で社交的な性格ではなく、大勢でいるよりは一人でいる方が好きな内向的な人でした。片付けが苦手で、父とよくケンカしていたのを覚えています。周りの反応に敏感で、神経質なところもありました。

 

家族について

母は専業主婦でした。

父が長男で、その実家に嫁いできたといった感じです。

敷地に私の祖父母(父の両親)の家が建っていて、その隣に私たちの家があります。私たち家族は父・母・姉・私の4人構成+祖父母といった感じでした。

父と母は私が物心つくころから、しょっちゅうケンカして、子どもから見ても仲が良くはありませんでした。

 

2歳年上の私の姉は暴力的・自己中心的な性格で、気に入らないことがあると駄々をこねたり、物にあたったりしている性格でした。姉の性格は年齢を重ねるごとに落ち着くどころか、荒れていきました。私が中学生の時には暴言と同時に、家の物をぐちゃぐちゃに壊していくんですよ。食べかけのごはんから、私の大事なものまで。ありとあらゆるものを。次第に姉は物から人に当たっていくようになりました。気に入らないと殴りかかってこようとしました。女の力なので、殴ってくるのを阻止することはできますが殴りかかってくるとき本能的に怖いんですよ。その場では、姉に負けないように強がっているんですが、襲ってくる恐怖が残るんです。

私は負けず嫌いな性格なので、姉が暴言をいってきても、張り合うんです。それでケンカになるというのが日常でした。

 

私が中学2年生の時、姉との関係に限界がきて、私は家出しました。

家出と言っても、隣にある祖母の家に居候しただけですが…そこからは、祖母の家で私はほとんど生活していました。でも、お風呂は自分の家で入ったり、夕飯は自分の家の物を食べたりと、姉に会わないように実家と祖父母の家を行ったり来たりしている生活でした。

 

 

父は職場が家から遠いところにあり、帰ってくるのが平日は遅かったです。土日は家にいるので、小学生の頃私とは、遊びのバトミントンをしてくれていました。でも、家のことには非協力的で、家事や子どものことは母親がやるものというような古い考え方の人でした。子どものことに関して母が相談しても一切口を出しませんでした。

 

 

 

母の実家は同じ県内にあり、車で高速を使って2時間ほどのところにあります。土日にはしょっちゅ母の実家に私も連れていかれて、帰っていました。

 

 

母についてですが、私が小学生のころまでは家事も得意ではなかったけど、何とかしてくれていました。
車社会の田舎なところに住んでいたのですが、車での送り迎えなどもその頃はしてくれていました。

 

そんな感じの家庭環境でした。

 

 

 

統合失調症の発症時

 
 

早速、書いていこうと思います。

 

病気の発症

私が中学3年生の時でした。私はその時、思春期&受験期でとにかくイライラしていました。当然、親にもあたり反抗的でした。

中学1、2年生までは帰ってきて、学校であったことや母の愚痴などをお互い言い合っていた関係でしたが、思春期に入りだんだんと自分の価値観と、母の価値観にずれを感じるようになってきました。それで対立することもあり中学3年生の頃には私からはほとんど母と話さなくなり、避けるようになりました。

母が私に何か言ってきたときには、うるさい。といって突き返していました。

そんな関係のときに私は受験期にさしかかり、自分の学力よりも高い偏差値の高校を目指していたので、勉強に必死でした。母のことを気にかける余裕なんてなく、自分のことで精いっぱいでした。

なんとか志望校に合格でき、高校生活にあこがれと期待を抱いていた時、母から「誰かが自分に悪口をいってる」「服装が変だってバカにしてくる」などと言ってくるようになりました。いわゆる幻聴です。陽性症状が表れ始めました。

 

母の初期の幻聴は、実際は違うのに私まで、そうなのかな。誰かが悪口言ってるのかな。と思うほどリアルでした。でもいくら私が耳を大きくして周りの様子を観察しても

誰もいってないんですよ。だって幻聴だから私には聞こえるはずがない。

私が、「勘違いだよ、誰も言ってないよ」と言っても母は「いや、いってる。怖い。」って言ってくるんですよ。

 

ものすごく怖かったです。母がだんだんと症状が悪化していき変わっていくのが。

その後、私が中学卒業の直前に母が入院しました。

当時、病気の知識も何もなかったのもあり、だいぶ自分を責めました。うちが、母にうるさい。って言ってちゃんと話さなかったからだ。って思っちゃいましたね。

とても悲しかったです。母親を求める気持ちと、現実とのギャップに。

子どもからしたら、いくらうるさいって言っても本当はいてほしいんですよ。気持ちをしっかり受け止めてもらいたいから、反発するんですよ。

だけど、現実では母が入院してしまって近くにいません。寂しかったですね。

 

今日はこのくらいです。

 

初めまして

初めまして。

 

私は、現在大学で心理学を専攻している学生です。私が中学3年生の時に母が統合失調症になりました。それから約7年、現在に至るまでの体験や葛藤を書いていきたいと思います。

 

統合失調症の方は人口の約1%いるといわれています。決して珍しい病気ではないですが、私の周囲に病気のことを話せるような人はほとんどいませんでした。私が当時10代で若かったということもありますが、今(現在21歳)でも母の病気のことを相談できる人は数名です。母の病気に加え、家庭環境もよくはありませんでした。

 

そんな中で、子どもとして母親を求める気持ち、孤独、悲しさを体験しました。
この体験・経験が、誰か一人にでも役に立てればという想いで書いていきたいと思いますので、見て下さる人がいればよろしくお願いします。